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(『国語学』52巻4号(207号) 2001・11・30 p.52-53)
日本社会の中の「国語学」と「日本語学」
佐藤 武義
「日本の言葉」を研究する学問を「国語学」と言い,遡れば,すでに明治30年(1897)(東京大学に国語研究室を創設)以降,上田万年(うえだかずとし 言語学者)の主導のもとに「国語」研究がはじまり,その後,「国語」は国家語であるという発言をはじめ,さまざまな紆余曲折があったにしても,現在に至っている。しかし,その間,「日本の言葉」を扱うにあたり,色眼鏡でみられることを避け,客観的でグローバルな視点を念頭においた研究者が何人かいて,「日本語学」,または著書名に「日本語~」を用いていたにしても,近年までは大勢としては「国語学」の位置はゆらぐものではなかったと思う。 しかし,ここ10年ほど前から,「国語学」と「日本語学」との関係について正面から問題にするようになったのは,学問上の論議の結果ではなく,私は,外からの力によってようやく重い腰を上げて検討するようになったと考えている。
外からの力の一つとして昭和40年(1965)代からはじまる高度経済成長期の出現とともに,多くの外国人を日本国内に受け入れることになったことと,日本に関心を持つ外国人の急増とにより,大々的に「日本の言葉」を外国人に教えなければならなくなった。外国人に学習させる「日本の言葉」を,内輪的で,日本人向けの「国語」ではなく,中国語・英語・フランス語などと同じように扱える「日本の言葉」すなわち「日本語」として教えなければならなくなり,その日本語教育の「日本語」を学問の名称として,当然「日本語学」が生まれた。このような事情からか最初は「日本語学」と言えば,外国人に教える学問と理解するのが日本人の一般ではなかったかと,私は印象的に思っていた。ところが,時間の経過というものは恐しいもので,現在では,外国人に教える学問を「日本語学」とするばかりでなく,場合によっては,この外国人教育の「日本語学」の影響が陰に陽に現
いん
よう
うちわてき
だいだいてき
たいせい
う
よきょくせつ
れていると思われるが,日本人自身の「日本語」研究の分野(とくに現代日本語)に広げられて考えるようになっていると思っている。しかも,現代「日本語」研究が活発に行われ,「国語学」研究者ばかりでなく,言語学関係者やマス・コミ関係者などの発言が目立ち,その扱う現代の「日本の言葉」を「国語」とはまったく言わず,「日本語」というくくりの中での発言でもあるため,その学問名の「日本語学」も日本人の中になじみつつあると思うのである。
しかし,「日本の言葉」の歴史研究は,いまだ「国語学」のカテゴリーの中に鎖されている印象を囲りに与えているのは,やはりその研究がほとんど日本人によって行われ,しかも外国語との比較研究も積極的に進められていず,多くは日本語内での分析に終始している状況が現在も続いているため,その学問名を「国語学」と言おうと,「日本語学」と言おうと,一向痛痒を深刻に感ずる必要がなかったからではなかろうか。研究者自身の論文名や著書名に「古代日本語」「中世日本語」のような語を用いたにしても,この「国語」を避けた歴史研究者が積極的に名称の改変を学会に訴えても学会を動かす強力な同調者に恵まれなかったはずである。この事は逆に言えば,この改変を提示するには,なお時期
しょうそう
じ
き
つうよう
とざ
尚早の感を免れることができなかったのも事実と思われる。
まぬか
結局,現代「日本語」を学習する外国人の急増と,それに伴う日本人研究者の現代「日本語」への研究のシフトとが,「国語学」の一大転換点となったのである。
次に,二として,このような事態の中で,大学の研究組織の改編が行われたことである。高度経済成長期後の国の内外の事情により,日本の高等教育における国際化・学際化とグローバルな研究の充実とが主張された。旧文部省と大学(とくに国立大学)が中心となり,その実現のために大学院重点化が計られ,旧制大学を中心に研究分野の大々的な編成の組み替えが行われた。教育研究組織を大学院に移行し,その下部の教育組織として学部を位置づけた。その結果,文学部は,一例として東北大学の例を挙げると,大学院文学研究科,その下に文学部の位置づけとなり,その学科は人文社会学科一つにまとめられた。専攻名は国語学専攻や国文学専攻でなく,日本語学講座,日本文化学講座と改変され,旧専攻名
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